・・ 故 郷 の 故 事・伝 説   そのー2− ・・

お じ い ち ゃ ん   お ば あ ち ゃ ん  お 話 き か せ て ー ! !


おじいちゃん、おばあちゃん の故郷の伝説を、子供孫達に聞かせてやりましょう。
遠い昔を思い出して、おじいちゃん おばあちゃんが子供の頃、お年寄りから聞いた
お話をお送り下さい。 写真や絵はこちらで探してみます。 伝承・伝説など、子供・
孫達に遺こしてやりませんか。 

・・お礼  猪早太の墓所が見つかりました! ・・






・・ 源頼政・猪早太の鵺(ぬえ)退治 伝説 ・・

時は平安末期、近衛天皇在位(1151〜1154)のときの事です。 近衛天皇は、正体の知れないもの

によって、毎晩うなされていました。 それというのも毎夜丑の刻(午前2時)になると、天皇の御殿の上

に黒雲がたちこめ、それと同時に、天皇は苦しみだすのです。  何か対策を立てようと、公卿が集まって

詮議した結果、源頼政(みなもとのよりまさ)に白羽の矢が立ちます。  頼政は納得できませんでした。

「そもそも武士は謀反者を退治し、勅命に叛く者と戦うために存在するのだ。 怪物を退治せよなどという

命令は聞いたことがない。」そう呟いてみたものの勅命とあらば、参内しないわけにはいきません。 頼政

は、信頼している猪早太(いの はやた)という部下一人を連れて、天皇の警護に向かいました。 丑の刻

になると、聞いていたとおり、東方より黒雲が立ち込めてきました。  頼政は見ました。  黒雲の中に

不信な影が動いているのを。  頼政は矢を弓につがえながら、もしこの怪物を射損じようなら、自分は生

きていられようとは思いませんでした。   「南無八幡大菩薩」  そう念じると、怪しい影に向かって

矢を放ちました。 瞬時に手応えを感じ、怪しい影は地に落ちました。  頼政が猪早太とともにその場へ

駆けつけてみると、暗闇の中に怪しい姿がうごめいていました。  「生かしてはおけぬ」 と、猪早太が

刀でとどめを刺してから、火明かりで見るとこれまで見たことがないような妖怪でした。  なんと、頭は

猿・胴体は狸・尾は蛇・手足は虎という形をした鵺(ぬえ)でした。  この報告を聞いた天皇は大変喜び、

獅子王という御剣を頼政に与えました。    取次ぎの任にあたった、左大臣藤原頼長は頼政にむかって

こう詠みました。 

「ほととぎす 名をも雲井に あぐるかな」 

ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ、という意味

これに対して頼政は、すぐさまこう受答えしました。 

「弓はり月の いるにまかせて」
弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです、という意味             


 ↑ ↓ 鵺(ぬ え)     
    
それから約7年後、二条天皇在位(1161〜1163)

のときの事です。また夜中になると鵺が現れ、宮中を騒が

せます。 先例により、源頼政が呼び出されます。今度は

五月の闇夜であったため、まったく鵺の姿が見えません。

鵺は一声しただけで、もう鳴きません。頼政は一計を案じ

ます。 射ると大きな音がする鏑(かぶら)矢を、さっき

声がした方向へ向かって放ちました。鵺はその音に驚き、

鳴き声を上げました。  頼政はすぐにその声に向かって

二の矢を放ちました。 見事に、矢は鵺に命中したのです。

禁裏では、頼政の腕前の見事さが評判になりました。

天皇も感激し、頼政に衣を与えました。 そのときの取次ぎ

をした右大臣藤原公能は、頼政にむかってこう詠みました。

  「五月やみ 名をあらはせる こよひかな」
    

↑鵺(ぬえ)退治する頼政と早太
    
 何ひとつ見えぬ五月の闇の中で、そなたは今宵 立派な武名

 をあらわしたことよ、という意味。 このときは、頼政はこう

 受答えしました。 「たそかれ時も すぎぬとおもふに」 

 (たそがれ時も過ぎ、人の姿も見分けられぬ暗闇となりました

 ので、わが名を名乗ったまでです、という意味) 

 二度の鵺退治により、源頼政の武名は天下に知られることとなり

 ました。   その後伊豆の国を賜り、息子の仲綱の受領にし、

 自分も丹波・若狭の一部を知行したのです。  その後 源平が


     
対立する世にあって、平氏一族にも信任の厚かった源頼政(源三位入道頼政)は「以仁王」(後白河上皇の子息)

の令旨を受け、平家打倒を打ち出したのは、治承4年(1180年)のことでした。


『・マサニ早ク清盛法師ナラビニ従類ノ反逆ノ輩(やから)ヲ追討スベキコト・・』(以仁王の令旨の一部) 


比叡山、三井寺、興福寺もこれに呼応、平氏打倒の令旨は、全国の源氏の流れを汲む武将に届けられました。

しかし、この計画は平氏の耳に入り、宇治川を挟んで、平家側と頼政との合戦になります。源頼政は、宇治川

の戦いで破れ自刃、逃げる「以仁王」もあえない最期をとげますが、その後 源頼朝、木曽義仲 等 全国

の源氏の武将が「打倒平氏」の合言葉をもとに、蜂起します。 源三位入道の歴史的功績はここにあります。




     源三位頼政公墓              宇治平等院の傍にあります。


・・  大寂寺 と 大宮さんの大杉伝説 ・・ 戦に破れ、自刃した源頼政の位牌を奉じ猪早太は、源頼政が母の菩提をとむらうために創建(治承4年4月) したと伝えられる大寂寺(臨済宗:柳谷村 中津 窪田)まで落ちのび、この地に居つく事になる。そして 窪田部落の井野家、井野田家の先祖としてその子孫が連綿とこの地に栄える事になります。 大寂寺の南側 には「大寂院殿従三位土岐頼政公碑」と刻まれた碑が立ち、猪野早太がひそかに持ち帰り納めた頼政の位牌 も当寺に伝えられていたそうです。
「大寂院殿従三位土岐頼政公碑」(柳谷村 大寂寺)  注) また 中津部落の鎮守 中津の大宮様には、言い伝えなるも、源頼政の臣、猪野早太が植えたものであると いう大杉があります。 大杉は元二株立ちで、周囲10.5mの巨木だったそうですがそのうちの一株が、 昭和18年に倒壊して、今はその根株に一本の若木が生えています。損傷の影響もあってか、樹勢はあまり 旺盛ではないが、厚く苔むした根元は歴史を感じさせてくれます。  ちなみに、ファミリーの2世いまは 亡き茂十郎 曽祖父ちゃんは、井野田家のご出身なのですよ。
中津 大宮さんの大杉(猪早太手植えの杉と伝えられている。)   我らが氏神様 大宮さん本殿




 ・・  そして、源頼政の母にまつわる 子を思う母の悲しくも凄まじいお話し ・・

頼政の母は、寺町加賀守宗綱の女である。 宗綱は伊豫親王の子浮穴四郎為世の孫であり、京都にて任官し、

加賀守となった。  母はいつも「我が源家は 清和天皇の末裔で次々と武将を生み出し、その威厳は他家に

匹敵するものなし。 しかし今や平氏が我が家の威厳を奪い、源家一族は衰退の一途を辿っている」と考えて

いた。 都に居て平氏の栄華を見聞きすることは忍ばれないと家綱に依って伊予国(愛媛県)にやってきて、

二箆(ふたつの:美川村)に移り、幽居した。  そこには、矢竹にするのに丁度良い双生の竹があった。

この竹を伐り矢を作ったことが二ツ野の名の由来という。(何時頃から二箆という字をあてるようになった

のだろうか?)  母も自ら矢を作り、京都にいる頼政のもとへと送り、「射術は武勇のたしなみであり、

これに勉めること」と次げた。 やがて母は病に臥し、危篤状態に陥った。そのとき赤蔵ヶ池に住むという

怪鳥〜猿の頭、狸の胴体、蛇の尻尾、虎の爪(肢)、声はトラツグミに似た〜が母のもとへとやってきた。

そして夜に飛び去った後、今度は京都にこの鳥が出現した。 天皇の寝室の上でやかましく鳴くので頼政を

召して射るよう命じた。 頼政は母の作ってくれた矢でこの鳥を見事に射抜いた。 時を同じくして、母は

息をひきとった。 それ以降 怪鳥も赤蔵ヶ池に来ることはなくなったという。 仁平3年4月7日の夜の

ことであった。

・・ 子 の 出 世 を 願 う 母 の 凄 ま じ い 執 念 の 話 が 伝 わ る 赤 蔵 ヶ 池 ・・



注)伊予の国 浮穴郡に領地を持つ頼政は、土佐の国への抑えとして久栖(久主)に城を築き館を構えた。

  頼政は土岐、由井の二氏に母を守らせこの地を治めていた。 大寂寺は治承4年(1180)年 頼政

  が久栖の館跡に母の菩提所として創建した寺と言われており、今の中津小学校の地(伊予と土佐を結ぶ

  旧・久万官道筋)にあったが、昭和23(1948)年の大火で焼け現在地に再建された。 この火事

  により頼政の位牌や遺品も消失したとの事である。寺の西方に『御所』と呼ばれる頼政の墓所があり、

  また後白河法皇の皇子 以仁王を奉じて平氏打倒の兵をあげるも、宇治川の戦いに敗れ自刃した頼政公の

  位牌を奉じ、この地・久栖に潜行逃れ至り井野家・井野田家の祖となったと言い伝えられる忠臣『猪野

  早太』の墓所と呼ばれるところも最近まであったとの事である。(この稿をご覧の方で、猪早太の墓所

と伝えられるところをご存知の方が居られましたら、お教え頂けませんでしょうか。

  宜しくお願い致します。)
**********( お 礼  猪早太の墓所が見つかりました! )***********

猪野早太の子孫と伝えられる井野田家・井野家の屋敷の直ぐ下、新道工事
が行われている傍に、梅木家の皆様が代々大事に御守りしてきた猪野早太
の墓所と言われる場所があり、陶製の小さい社がひっそりと鎮座していま
す。 私たちが生れ育った中津(久栖)の歴史の中で実名で伝えられ残る
最も古い方の墓所ではないでしょうか。 ・・[中津fm] 明さん写す・・
平成16年春、頼政が母を弔うため創建されたと伝えられる大寂寺で、春のお彼岸法要がありました。 故郷を離れ40数年振りの春のお彼岸のお参りでしたが、従兄弟の健ちゃんに声をかけて頂き、春恵姉と 家内で法会に出させて頂きました。  そこで紹介された梅木君に、この伝説と猪野早太の墓所の所在が 不明との件を話したところ、なんと・・『ボクの産まれた家の裏に猪野早太の墓所と言い伝えられている ところが在ります・・。』とのことでした。猪野早太の墓所については数少ない関連書物においても所在 が不明・・と伝えられていました。 猪野早太の墓所がきちんと言い伝えられ、大切にお守りされ残って いたとは・・これは将にこの地に逃れ、大寂寺に納めた源三位頼政公の位牌を守り仕え、子孫を残し今日 に至った猪野早太の霊の引き合わせだったのでしょうか。  大寂寺のご本尊千手観音菩薩さま、源三位 頼政公をもこの出会いを導いて下さったのかも知れません。 ・・ 居合わせた大寂寺の和尚、梅木君、 健ちゃん、春恵姉そして家内ともに、不思議なお引き合わせを感じました。  その後、各位のご尽力に より「猪野早太の墓所」の保存が計られるべく、工事が予定されているそうです。 後刻、この稿のプリ ントを、大寂寺の和尚、梅木君、健ちゃんには当然ながらお届けいたしましたが、まことに『不思議・縁 (えにし)』を実感した出来事でした。 ちなみに私共は、大寂寺を後に猪野早太の手植えと言い伝えら れる大杉のある大宮さんのお参りに向かいました。  BGMは[石井fm]お気に入りの『青葉の笛』 ですが、以仁王を援けて立った源三位頼政の反平氏の動きが地方の源氏による平氏打倒の気運に火をつけ その火はやがて頼朝・義経兄弟に率いられた源氏と清盛亡き後の平氏との戦い「源平合戦」へと燃え広が っていきます。 驕り昂ぶり、公達然とした平氏が、野に逼塞し打倒平氏の機を窺っていた源氏の武士団 に、富士川・一の谷・屋島そして遂には壇ノ浦の戦に敗れ滅亡していく中、「青葉の笛」をはじめ数々の 悲しくも哀れをさそう日本人の琴線に響く物語が生まれます。    (『いのはやた』の『いの』の表記については諸文献に猪野、猪、井野、等の表記があり当文中で      も統一していません。 ご了承下さい。)

注)おおよそ90年の昔、大正8年、旧中津村の在郷軍人会によって建立された『従三位源頼政公之碑』

   の碑(下記の写真)については戦後のある時、碑が作り直され、碑面が現在の「大寂院殿従三位

   土岐頼政公碑」に変わったと言われていますが、その経緯や事由、また元々の碑の行方も不明の

   まま、今日に至って居ました。地元の有志の方々が、元の碑の行方や経緯・事由を調べ捜されて

      いましたが・・・、この度発見された古い写真でその事由が判明しました。

   下記の写真をご覧ください。 左は大正8年、旧中津村の在郷軍人会によって『従三位源頼政公之碑』
   
   の碑が建立された時の記念写真。 そして、右の新旧の碑の比較写真をご覧ください。

   建立された時の写真の碑の部分を切り出し、画像を加工し碑の輪郭を写真の様に線でなぞると、

   この様になりました。 そうなのです。 同じ石碑に元の碑文を削り、新たに『大寂院殿従三位

   土岐頼政公碑』と彫り直したのがよく分ります。  長年の頼政公の碑にまつわる謎が一つ解決

   しました。  しかし、なお 「何時? 誰が? 何の理由で?」が不明です。 

   故郷の貴重な歴史遺産に纏わる、何なりとご存じの方が居られましたら教えて頂きたいものです。

     (故郷、中津郷の皆さまで下記の祈念写真のコピーをご要望の節はHP管理人まで
      お申し越しください。)

  
  大正8年、旧中津村の在郷軍人会によって建立された『従三位源頼政公之碑』と現在の碑(比べてみて下さい。) 追)[特集コーナー]に[故郷の故事・伝説(3)][大寂寺創建時期の謎]を設けました。中津(旧久主村)    窪田の梅木家によって守られてきた猪野早太公の墓碑が新設された報告と源三位頼政公による創建と    伝えられる大寂寺創建時期の謎にをついて探ります。
(猪野早太公の墓碑建立を伝える久万高原町広報誌=2006年9月号 17頁=から) :
 (2007-04-27転載許可=久万高原町)
  



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(最終頁[皆さんから!]のお便りコーナーをご利用下さい。)