・・ 故 郷 の 故 事・伝 説   そ の ー3− ・・    


[ 特集コーナー ]の[ 頼政伝説 ]にて、故郷 久栖郷(久万高原町中津)で記録に残る墓碑としては最も古い

と思われる 源三位頼政公の臣 猪野早太 の墓碑が文献や伝承にその存在が伝えられながらも、永らく所在が不明

となってたところ、一昨年の春、 猪野早太 にも縁の深い大寂寺の彼岸法要を奇縁に見つかった(下段左下)と記

しましたが、この度 地元有志のご尽力により新たな墓碑が建立されました。  猪野早太は以仁王の乱に破れ宇治

川の畔に生涯を終えた源三位頼政の位牌を奉じ、頼政が母の菩提を弔うために建立したと伝えられる、仏頂山大寂寺

のある伊予国浮穴郡(うけなごおり)久栖(くず)郷に落ちのび、頼政の位牌を同寺に納めるとともに久栖郷に土着、

井野家 井野田家の祖となったと伝えられています。  猪野早太の『 墓 』は江戸徳川期初期に久栖郷の初代庄屋を

務めた梅木家によって代々まもられてきました。 猪野早太の新たな墓碑の完成を機に、早太が頼政の位牌を納めた

仏頂山大寂寺([ 特集コーナー ][ 仏頂山大寂寺 ]参照 )の建立時期にまつわる時代考証を、久栖郷の歴史・

文化について長年調査、考証を続けている[中津fm]に纏めていただき、その一端を報告してもらいました。

猪野早太の新しい墓碑の写真も併せてお送りいただきました。 

仏 頂 山 大 寂 寺 の 創 建 時 期 に つ い て    ( 一 考 察 )     By  [ 中津fm ]




元の中津小学校から仲田に向かう途中の側道階段下に鎮座する早太公墓碑(お地蔵さん)



猪 野 早 太 公 墓 碑



旧 久栖郷の庄屋 梅木家
が 代々 お守りしてきた
早太公の墓碑(2004/5写)
頼政の鵺(ぬえ)退治については、それが二度あったことが、平家物語にも

[まさきファミリー]の特集にも述べていますが、一回目に退治された

のは、近衛天皇の在位(1141〜1155) の時で、鵺(ぬえ)退治をされた時

に、母も死亡されたと記されており、仁平三年四月七日は 1153年であり、

合致すると思われる。

頼政は母の菩提を弔うために寺(大寂寺)を建立(古文献に『 治承4年 

=1180= 4月、従三位源頼政による創建』と記されている)したとあるが、

 同 治承四年 =1180= 頼政は以仁王の乱に加わり、武運つたなく宇治で

自刃し、猪野早太が頼政の位牌を持ち帰り、これを大寂寺に納めたとも

伝えられている。 大寂寺創建の時期(古文献に『治承4年 =1180= 4月、

従三位源頼政による創建』と記されているのが通説) と頼政自刃の時期

が同じになっており、以仁王の乱と頼政自刃の年度=1180=をより確実性

の高い史実として見れば、大寂寺の創建の時期については古文献に書か

れている「治承4年=1180= 4月 建立」説より以前、・・ 1153年の母の

死後から頼政の自刃(1180年)までの間で、創建の時期は通説より早まる

のではないかと思われる。  また、栄西が中国より伝えた臨済宗は、

鎌倉初期 (鎌倉幕府開府 =1200= ) 以降に興隆の宗派であり、花園天皇

(在位 1308〜1318)と臨済宗、そして妙心寺との深い関係からみれば、

臨済宗妙心寺派仏頂山大寂寺 の寺号成立は 1300年代となり、それまで

いずれの宗派の寺院であったか、不明(恐らくは真言宗 =?= )である。

大寂寺 等 郡内の臨済宗の寺々は松山の天徳寺(山越)の末寺となって

おり、大寂寺の 臨済宗への改宗 については、尚 調べてみたく思って

おります。 次稿をお待ち頂きたい。 (本文・写真 [中津fm])



※ 猪野早太公の墓碑「お地蔵さん」の碑銘は、事由不明なるも「 館 跡 」となっている。

※ 猪野早太は、元 遠江国(静岡県西部の遠州)の住人で後に源三位頼政に仕え、頼政と共に鵺を退治 止めを刺した
  ことで名を馳せる。 字は 廣直。  『いの はやた』の表記については諸説あるが、当文中は「猪野 早太」で
  統一した。  (参考 太平記=猪隼太 平家物語=猪早太 盛衰記=早太 他に 猪野、井野、等)

※[特集コーナー]の[頼政伝説][松岡古城-1-2-3-4(未)-]も併せてご覧下さい。 

(猪野早太公の墓碑建立を伝える久万高原町広報誌=2006年9月号 17頁=から) : (2007-04-27転載許可=久万高原町)
  



・・ ご 感 想 や ご 意 見 を 頂 け れ ば 幸 い で す 。 ・・
(最終頁[皆さんから!]のお便りコーナーをご利用下さい。)

・・ 背 景 は 鵺 退 治 を す る 頼 政 ( 左 ) と 早 太 ( 右 ) ・・